朝ドラ【なつぞら】酪農のパートナー「牛」や「馬」と人間の関係。御雇外国人と競馬とガソリンの意外な関係

2019年4月から放送の朝ドラ【なつぞら】

主演はセブンティーンモデル出身で若手演技派女優として人気の広瀬すず。

その役は戦争で両親を亡くし、のちにアニメーターとして大成する女性。

ここでは、広瀬すず主演朝ドラ【なつぞら】の牛と馬にまつわることを紹介しています。

「柴田牧場」のモデル「依田牧場」、帯広、北海道の酪農の略年表

日本列島に暮らす庶民が「牛肉を食べる」という習慣ができたのは、日露戦争のあった1900年頃以降だったと言います。

それまでは、殺生を嫌う「仏教」や、牛より馬を尊ぶ「武士文化」のために、牛を食していたのは皇族などの権力者のみでした。つまり、以下の年表にある牛肉の家畜化が、日本で現在当たり前となっている「酪農」の黎明期でした。

幕末から明治にかけて、日本列島に「牛肉食」が根付いていった。

そして、北海道の開拓は、酪農とそれに関連した産業が密接に絡んだ日本の文化史とも言えます。特に、砂糖がなければ、現在のスイーツ文化はありませんでしたし、酪農がなければ、庶民が牛肉を食べるということはなかったかも知れないのです。

1858年(安政5) |松浦武四郎「十勝日誌」
1896(明治2年)|蝦夷地は松浦武四郎により「北海道」と改称され、十勝国(現在のほぼ十勝支庁域)を創設。
1882年|当縁村湧洞(現在の大樹町生花)の佐藤嘉兵衛が、和牛の「日本短角種」を2頭購入。
1884年|「晩成社」大樹町で畜産会社経営開始。(大樹町は宇宙開発の街としてホリエモンこと堀江貴文が住民票を移している街)
1886年|「晩成社」が南部牛を購入。この頃は短角、デボン、シンメンタールなどの肉用種。
1887年(明治20年)|乳牛が十勝に導入。道庁より借用の牡牛「エアーシャ」種。この頃(明治23年)の十勝の民有牛は約100頭(その大部分は当縁村の晩成社牧場)
1892年|「晩成社」函館に牛肉店、当別村に畜産会社、帯広には木工場、然別村(現在の音更町)に牧場を開く。
1895年|北海道集治監十勝分監の開庁後、受刑者によって大通(監獄道路・囚人道路)が整備。
1902年|「晩成社」バター工場を創業。缶詰工場・練乳工場等もあった。
1916年|「晩成社」売買(うりかり、今の帯広市南東部)等の農場を売却することで活動休止。→のちの1932年に「晩成合資会社」は解散。
1918年(大正7年)|7月に第1次大戦「終結」。「晩成社」農事試験場の西北側(東9条7丁目)に成搾乳所を建設、大津村から牛を移して市乳の販売を始める。

「六花亭」の前夜この頃、国策により、てん菜耕作=砂糖製造が急成長。帝国製糖(株)系、北海道製糖(株)や日本甜菜製糖(株)が創設。

1920年|関東大震災発生。この直後、政府は震災救護品の名目で、無税の外国乳製品を多量に輸入。これに反発し、北海道牛馬組合連合会が外務、大蔵両省に北海道酪農の危機を訴える。
1924(大正13年)|勉三の養子、依田善助がそれまで管理していた高橋利八(?)から受け継いで「依田牧場」の管理開始。
1932年|「晩成合資会社」は解散。
1933年(昭和8年)|帯広が北海道で7番目に市制施行。
1939年|お菓子屋「雪月」のモデル「六花亭(当時「千秋庵」)」の砂糖を大量購入が功を奏す。
1941年|帯広神社前に依田勉三の銅像を建てる。銅像を建てたのは中島みゆきの祖父・中島武市。岐阜県大垣の出身。大阪、名古屋、旭川と移動し、帯広の政界で活躍。
1957年(昭和32年)不漁対策として、大津村(現在豊頃町)に日本短角種が導入。不漁に悩む漁家の副業に沿岸山野を利用し、生活の安定をはかる目的で飼養開始。
1958年|大樹町「黒毛和種=和牛」が導入。十勝の肉用牛が始まる。

かつて近江牛などが将軍などに献上されていた唯一の「食肉用牛」でしたが、明治維新後にやっと「牛肉食」の習慣が、庶民にも広がっていきました。

牛は、古くから農作業の際に、土を耕すために利用されたりと人との関わりのある存在でしたが、前出のように、様々な制約があり、庶民が口にするような文化はなく、イノシシやウサギ、魚などが、庶民にとっての「肉食」でした。

明治期になり初めて牛は「牛乳や和牛」という形で、多くの人を養う栄養となりました。つまり、ドラマ内で見られる光景は、次に紹介する欧米人から教わった技術により日本に芽吹き始めた「酪農」の姿だということです。

次は、牛と同様に人間のなくてはならないパートナーである「馬」について、見ていきます。

日本競馬とエネオスを作った男・エドウィン・ダン

北海道の日本由来の馬は道産子(どさんこ)と呼ばれています。

道産子
日本在来馬「どさんこ」画像引用元:BALOG

これは、江戸時代中期に松前藩の藩士たちが蝦夷地に赴任するときニシン運搬のために移入した「南部馬」を、内地へ帰るときに原野に放してきたことが始まりとされています。

その姿はポニーに似た体型で、競馬で走っている「競走馬」とは全く違う種類です。

この道産子の先祖の南部馬(別名:奥州馬)は、奈良や平安時代の頃から、都(京都)の貴族や武士内で一種の名ブランド馬として知られていました。

安倍晋三の先祖とも言われる奥州藤原氏は、黄金・アザラシの皮と並んで、奥州馬も都に献上していたそう。中東からアフリカの砂漠地帯で見られる”荷物を運ぶ動物”としてのラクダを「駄載獣(ださいじゅう)」と言いますが、牛もドサンコも現代の運搬車のような形で利用されていました。

そして、農業では現在の「耕運機=トラクター」としてなくてはならない存在だったので、人間と馬が土間をはさんで同じ空間で寝ていたこともあったほどでした。そして、牛や馬に鉄製のブレードを利用して土を耕す方法を「プラウ」と言いますが、明治期に御雇外国人として北海道の農業を指導したのが、エドウィン・ダンという人物でした。

そして、彼こそが、現代競馬を支える北海道日高の牧場文化と、どこに行っても見かけるガソリンスタンド「エネオス」の基礎を作り上げた人でした。

プラウによる伝統的な馬耕 画像引用元:Wikipedia

〜以下こちらから引用〜

また更に明治5(1872)年、日高郡に創設された新冠牧場(現・畜改良センター新冠牧場)の経営改善案を発案した上、種豚・種牡馬・羊の輸入などの政府に献策し、日本近代酪農の礎を構築する一翼を担いました。特にサラブレッド種(競走馬)の育成に尽力し、これが現在でも知られる『数多くの名馬を輩出した競走馬の生育地・日高』と繋がってゆきます。

この偉業と先の種牡馬の去勢技術導入した事が、彼が『日本競馬を創った男』と現在でも呼ばれる所以となっています。

中略

明治30(1897)年に全権公使を退任。その後、米国の石油会社・スタンダードオイルの日本支社・インターナショナル石油会社の新潟県直江津工場のオーナーに就任。ここでも忠実に職務を全うし、明治40(1907)年に直江津工場が閉鎖された際、破格の値段で工場と全設備を、当時、新潟県三島郡を拠点とする日本石油(現・新日本石油株式会社・ブランド名ENEOS)に譲渡しましたが、これが日本石油の発展に繋がる事になります。図らずもダンのこの決断が、現在、街の至る所で見るENEOSブランドに生きているのです。

またその後に、三菱造船東京本社にも勤務しました。そして、昭和6(1931)年5月15日午前10時30分、エドウィン・ダンは84年の生涯を閉じました。

〜引用終わり〜

これには、いい側面も悪い側面もあるりますが、もうひとり、御雇外国人として知られるのが、「少年よ大志を抱け、この老人のように」の言葉で知られる、クラーク博士でした。

クラーク博士の教え子もまた、今の日本人にとって馴染みの深いものを生み出していきました。

〜以下こちらから引用〜

①農学校一期生
・佐藤昌介(日本初の農学博士 北海道帝国大学初代総長)
・渡瀬寅次郎(教育者 二十世紀ナシの命名者)
・大島正健(言語学者・宗教家 クラークの名言『少年よ、大志を抱け』を後世に伝えた人物)
・伊藤一隆(北海道道庁初代水産課課長。日本サケ・マスのふ化事業および北海道の水産業の発展に尽力。推理小説家・松本恵子の実父、タレント・中川翔子さんの母方の高祖父)

②農学校二期生(クラークから直接薫陶は受けていませんが、彼の教育方針を受け継いだ農学校2代教頭ホイーラーに教育を受けました。とにかく凄い顔ぶれです。)
・新渡戸稲造(入学当時は太田姓。教育者・思想家・国際連盟事務次長、「武士道」の著者、旧5千円札の肖像としても有名)
・内村鑑三(文学者・キリスト教思想家・無教会主義者、。「代表的日本人」の著者)
・宮部金吾(植物学者、エゾマツ・トドマツなど植物の分布境界線「宮部線」にその名を遺しています)
・町村金弥(実業家・政治家。初代文部科学大臣や外務大臣を務めた町村信孝氏の祖父)
・足立元太郎(生糸・養蚕事業の貢献者。第42代内閣総理大臣・鈴木貫太郎の義父。貫太郎の後妻・たか夫人の父。)

お札の顔の人、千葉県の酪農発展の礎を築いた人、総理大臣の義父、現職政治家の祖父と、錚々たるメンバーですね。

牛が家畜化され、庶民が食するようになったのが、明治期だったといことを見てきましたが、ここでは、馬の家畜としての側面を引用とともにご紹介します。

〜以下こちらから引用〜

馬の家畜化
現時点で、野生の馬が家畜化された最も古い記録は、東ヨーロッパの国の1つであるウクライ南方にある新石器時代(紀元前3500年頃)の遺跡から鹿角で出来た馬具(ハミ)や馬の頭蓋骨などが発見されていてます。また最近の世界各地で行われた馬の出土遺骨からの毛色遺伝子検査よれば、紀元前1万年以前の馬の毛色は鹿毛のみでしたが、先述の新石器時代頃には、既に栗毛色や斑点毛色の馬が出現していたという結果が出されています。

馬が家畜化された当初は、食用目的で飼育されたと考えられていますが、牛やヤギ等の他の主要家畜動物と比較すると、馬の家畜化は年代は遅いものでした。しかし、ひとたび馬が家畜化されると人間は、食用肉以上に『使役』としての高い利用価値を見出し、軍事・物流・通信・農業労力といった役割を担わせ、人類の歴史の構築に役立たせたのです。とりわけ軍用馬としての役割は、中世のモンゴル族から推察できる様に民族や帝国の興亡の成否を握る動物であったという点では、牛など比較にならない程の巨大な存在であった事は間違いあいません。

 馬が上記の様に人類の歴史の中で長期間重用されてきた理由として次の事柄が挙げられます。

温順な性格で学習能力が高く、品種改良を経てゆく度に進化したスピードとスタミナを獲得していたと同時に、体格面でも固い脊椎・長い頸を持つ身体に進化していったので、人は安定した乗馬が可能になりました。また極め付けは、馬の歯並びの特徴です。乗馬の際にハンドル(制御)役をするハミ(棒)を装着する折に必要な『歯槽間縁(歯が無い部分)』が馬にある事が、今日の人と馬の関係を築き上げたのです。

 軍事目的での馬の利用は、戦争史ひいては人類史に大きな影響を与えた事は先に述べさせて頂きましたが、勿論戦争目的のみで利用されておらず、走る速さを活かして情報システム制度(後の駅伝制や伝馬制)の確立にも大きな役割を果たし、強靭なスタミナは農耕労力としても活躍しました。

これ程多方面に活躍している家畜動物なので品種改良は古くから頻繁にヨーロッパヨーロッパで行われてきました。古代ローマ時代には馬匹改良や繁殖の試みがされていました。方法としては、スピードある小型馬とスタミナに富む大型馬を交配させる事で、スピードとスタミナを兼ね備えた馬を産出させていました。また中世~近世の欧米の王侯貴族が中心となり、同様の改良方法を用いて更なる駿馬を創り出す事が繰り返されました。

〜引用終わり〜

平坦な土地が少なく、山や川が多い日本には西洋のような「馬車文化」が根付かなかったため、基本的には権力者や上級武家の乗り物として関わってきた馬。

現在の情報通信(インターネット)に繋がる「郵便システム」に大きく関わったのが西洋の馬文化でした。それに加え、もともと遊牧民族だった「武士」一族が、日本に来てから「定住」をしたことも、馬文化が大陸よりも経験値の少ないものとなった要因のようです。

ですので、エドウィン・ダンなどの西洋の馬術を教えられた当時の日本の人たちは、海外の馬文化を理解するのに苦労したとも言います。そんな西洋文化を取り入れて、一通り馴染んだというのが、朝ドラ「なつぞら」で描かれる頃の話になります。

牛や馬と人間の関係の側面を知って、ドラマを楽しんでいただければと思います。

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