白蛇伝承は実話だった。広瀬すず【なつぞら】の「白蛇伝説」のあらすじとユダヤの関係

第100作目となる朝ドラ「なつぞら」では「白い蛇」の伝承が重要なモチーフとして取り上げられています。

広瀬すず主演の今作は、戦争を機に両親を亡くし、兄妹とも別れ離れとなってしまった少女が主人公ですが、彼女の高校時代とアニメーターとなってからのよそ二回ほど、「白蛇」と関わりがありました。

高校時代は演劇の演目として「白蛇伝説」が取り上げられ、アニメーターとなってからは「白蛇伝」という日本初めてのカラーアニメーション映画の製作に携わることになりました。

ここでは、「なつぞら」だけに限らず、これまでにモチーフとして世界中で繰り返し伝えられている「白蛇」の伝承を、いくつかの角度からひも解いていきます。

朝ドラ「なつぞら」の高校演劇の「白蛇伝説」

広瀬すず演じる主人公・奥原なつが高校の時に、あることがきっかけで通っている高校の演劇部のコンクールに参加することになります。

そこで上演された「白蛇伝説」の概要は以下のようなものでした。

主人公の男・ポポロが、少年たちが白い蛇をとって食べようとしていているところに遭遇する。そこでポポロは蛇を助けて川に返しててあげる。すると川から、珍しくそして美味しい魚が飛び出てくる。美味しい魚を与えてくれたのは白い蛇で、神の使いだと思う。

その後ポポロの村で謎の病気が発生し、ある「薬」を作って解決しようと、その材料を求めて、ポポロの村の村長が隣の村に材料をもらいに行く。しかし、隣の村の村長からの条件は、材料を渡す代わりに村長の娘・ペチカを嫁がせること。

ペチカは嫁ぐことを決意する。しかしペチカと結婚を約束していたポポロは、ペチカが嫁ぐということにショックを受けてさまよい歩いていると、ペチカにそっくりな白蛇の精に出会い願い事を叶えてもらう。その願いは「ペチカを嫁がせないでほしい」ということだったので、ペチカは嫁がないことになるが、同時に謎の病に倒れることになる。

ポポロが後悔しているとそこへまた白蛇の精が現れ、ペチカを病気にしたのは、自分がポポロに恋をしてしまったからだった。そして、白蛇である自分を煎じてペチカに飲ませれば病気を治すことができる。食材もたくさん取れるようになるから、隣の村とも仲良くなれる、と言って姿を消す…。

という話でした。

これは世界中にある「白蛇伝説」とほぼ同様の内容です。

こちらから引用)

初めは白蛇の妖怪が白衣の美しい女性に化けて、淫慾を満たしその心肝を食うために若い男性を攫う、という素朴な民間説話が物語の大きな枠組みであった。

(終わり)

白蛇の精が、主人公ポポロに恋をしているという部分が、しっかりと受け継がれています。そして実はこれはただの空想話ではなく、実際にあったことだったようです。

白蛇伝承と現実にある「生贄」

そのどれもが必ず「水」と関連づけられているもので、水神といえば、「龍」のことでもあり、龍は「蛇」のことでもあります。以下のインド村の村長の娘が捧げられたというのは、「人柱(ひとばしら)」として行われていたことだと言われています。

こちらから引用)

「ボムベイ(インド)のワダラ池に水が溜らなんだ時、村長の娘を牲にして水が溜まった。」

(終わり)

さらに以下の伝承も、滋賀県伊香郡(琵琶湖の北)のあたりで実在した話だと言われています。

こちらから引用)

近江国伊香郡には、水神に対して美しい娘の生贄を奉ったが、当地では生贄となる娘が片目であったとされる。柳田國男の『一つ目小僧その他』において、人身御供と隻眼の関係が説かれている。

(終わり)

そしてこれらの「蛇」の話は、キリスト教で知られる「旧約聖書」の「創世記」に登場することでも有名です。

”最初の人類”とも言われるアダムとイヴのエピソードの中で、女性であるイヴに「善悪を知る木の実」を食べるようにそそのかした「蛇」が登場しますが、これは「白蛇伝説」と似ている部分があります。

アダムとイヴと「白蛇伝説」

「アダムとイヴ」のエピソードの概要は

神様から「善悪を知る木」からとって食べてはいけないと言われていたにも関わらず、イヴは食べてしまった上に、それをアダムにも与えた。

という話です。

詳しくは以下のリンクから「旧約聖書 創世記 2章15節」をご確認ください。(ユダヤ教は旧約聖書を教典とする宗教です)

ウィキソース 創世記

ここで蛇は、イヴを「悪」に誘惑する存在として登場します。そして事実、キリスト教が広まってからというもの「蛇」は「悪いもの」の象徴として度々言及されるようになります。

その中で蛇を、聖書とは「真逆に」肯定的に捉えた「グノーシス」という宗教も存在しています。

(こちらから引用)

グノーシス ★ Gnosis 「知識」、「認識」を意味するギリシア語。 「グノーシス」主義は、紀元一世紀から二世紀にかけてギリシア、オリエント世界を席巻した霊的観念体系。

中略

「アダム」を誘惑した「蛇」を肯定的にとらえ、シンボルとしている。

(終わり)

このように、聖書で言われていることを「真反対」に解釈して、真理にたどり着けないようにする様々な宗教が生み出されました。それらの宗教の特徴は「恐怖」がその根本の原理に埋め込まれているということです。

そして、宗教だけに限らず、民間伝承のほとんども「恐怖」がその行動の原理になっています。

朝ドラ「なつぞら」の「白蛇伝説」の中でも「ほかの村長から娘を差し出さなければ食料が絶たれる」という「恐怖」により、娘を嫁がせなければならないという内容でした。

そして、世界中で伝わる伝承もほとんどが同じ原理です。

しかし、聖書で言われている教えは、そのような「恐怖」ではなく、人間には色々なものが与えられるから希望を持ちなさいと、されています。そして希望を持つには、食物をも人間をも造った創造主を「畏れ」なさいと言っています。

この「畏れ」は「怖がる」ことではなく、人間が溺れやすい「感情」で物事を判断せず、理性的に生きなさいということでもあります。

もし村長が他の村長のことを恐れずに理性的に物事を判断していたら、ほかの方法で食料を得る事はできないか?と考えたかもしれません。

そして、これらの伝承の中には、「創造主」に頼まずに「悪」に願い求めていたので、当然ながら悪い結果がもたらされることもあったようです。

こちらから引用)

青木純二の「アイヌの伝説」では、神話学者高木敏雄が早太郎童話論考にて分類した人身御供伝説の形式以外に特異な展開を見せる伝説が書かれている。
即ち33頁―36頁「娘を奪う山の神」、52頁―56頁「火の神の使い」、80頁―81頁「雪の中に咲く百合の花」、82頁―84頁「白神岬の祟」などである。
これがその他凡百の人身御供伝説と異なるのは、勇者や僧侶が人身御供となる犠牲人を助ける展開がなく、人身御供の儀式が決行され、しかもその後に後味の悪い結末が用意されている点である。

例えば、「火の神の使い」では神の怒りを鎮めるための人身御供が行われたにも関わらず、神の怒りが鎮まらず、村人が全員死んでしまう。 それに反して「娘を奪う山の神」は、人身御供の儀式が行われ一応成功に終わるものの、人身御供となった女性の恋人が自殺する。

(終わり)

旧約時代のファッションとアダムとイヴの全裸

ちなみに、アダムとイヴが最初の人類である、ということや、その前に「リリス」という女性がいて、イヴは二人目の妻だった、というような様々な説がありますが、それらは「出口のない議論」なので、関わらないようにした方が賢明です。

そもそもこの「アダムとイヴ」に限らず聖書は「比喩」で書かれているので、現実に沿った「理論的な、スジの通った」理解が必要です。

そもそも最初の人類と言われることもある「アダムとイヴ」ですが、彼らは神様の言葉を直接人間たちに伝える役割としてえらばれた最初の「人」であっても、猿人から現生人類になった「人」のことではないのです。

「アダムとイヴ」のエピソードの前に言及されている地名には「クシュ」や「アッシリア」があり、これはどちらも紀元前3000年から1000年頃の中東に実在した文明です。

さらに言えば「善悪を知る木の実」が「りんご」だとは聖書のどこにも書かれていませんが、いつの間にか「りんご」が「善悪を知る木の実」と同一視されていますし、アダムとイヴが生きた時代が紀元前3000年だったとしても、何かしらの衣服を身につけていたはずですし、現代の原住民と言われる人たちでさえ、上半身が裸であっても、全裸ということは決してありません。

ちなみに「アッシリア」と同じ頃の古代エジプトの人たちが着ていたのは、一般の男性は「腰巻」、女性は「ワンピース」という以下のような装いだったと言われています。

このように聖書に登場する「蛇」は、その後各地で「悪」とみなされることになりましたが、同時に「水神」「龍神」という形で崇拝の対象にもなりました。

それらの崇拝が強いところに、これら「白蛇伝説」も根付いていると考えられます。

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