「アメリカに負けなかった男〜バカヤロー総理 吉田茂〜」は、テレビ東京開局55周年特別企画スペシャルドラマとして、2020年2月24日に放送されました。
世の中には表向きと裏向きと言うものがあります。
ここで描かれているのは「表向き」と言うことは誰が見ても明らかですが、吉田茂が総理大臣になり、どのような行動をしていたのか、どのような交流関係を持っていたのかと言うことがわかってくると言う点では、一見の価値ありとも言えます。
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登場人物とキャスティングされた俳優、その後に、ネタバレとして、あらすじを掲載しています。
登場人物 キャスト
吉田茂(笑福亭鶴瓶) |主人公。外務大臣から総理になり、マッカーサー率いるGHQと渡り合った男。外務官僚。ロールスロイスに乗っていた。10月20日死去。ハロウィーンの10月31日に国葬。
白洲次郎(生田斗真) |貿易の仕事をしていた頃から茂と親しい側近。GHQに名刺を見せるだけですんなり話がまとまるため、名刺を一枚5万円で売ってくれと言われることも。
麻生和子(新木優子) |吉田茂と茂の最初の妻との間の子。茂の側近として活躍する。夫は麻生太賀吉。息子は麻生太郎。白洲次郎が引き合わせ太賀吉と知り合う。
麻生太賀吉(矢本悠馬)|福岡県飯塚市の炭鉱一族の麻生家の出身。和子の夫。子供は麻生太郎。白洲次郎の紹介で和子と知り合う。吉田学校のメンバー。
田中角栄(前野朋哉)|吉田学校のメンバー。最終学歴は小学校。「片山内閣は日本を社会主義国家にするつもりか!炭鉱を国が管理するとは何事だ!」と一人でも反対を貫く姿勢を見て太賀吉が吉田学校に誘う。
佐藤栄作(安田顕)|吉田学校のメンバー。運輸省鉄道総局長時代に吉田内閣に招かれる。岸信介が巣鴨プリズンに入れられている最中だった。のちに、池田勇人を吉田学校に誘う。
山崎猛(田中健) |茂から総裁の座を奪おうとするケーディスに擁立された政治家。当時は民自党幹事長。
西村栄一(藤田宗久)| “バカヤロー解散”を引き起こした人物。
松本蒸治(国枝量平)|茂、次郎と共に「天皇は国の象徴」と書かれたGHQの憲法草案を見せられた国務相。当時は憲法改正担当。
鳥尾鶴代(橋本マナミ)|ケーディスの愛人。杉田屋で密会していた。
宮澤喜一(勝地涼)|池田勇人の秘書官。ドッジの理不尽な要求に怒り心頭だった池田勇人を海に連れて行く。
池田勇人(佐々木蔵之介)| 吉田学校のメンバー。吉田内閣で大蔵省。実家が造り酒屋。一高に入れず五高(ナンバースクールの高等中学校の一つとして設立された第五高等学校)出身。京大出身で肩身が狭い。かりんとうが好物。
坂本喜代/こりん(松嶋菜々子)| 茂の最初の妻・雪子の死後に茂の妻となった、元新橋の芸者。
芦田均(久松信美)|ケーディスが擁立に動いた民主党議員。
マッカーサー(チャールズ・グラバー)|GHQ総司令官。茂からは「軍人にしてはユーモアのわかる男だ」と評され、後年は茂と親しかった。
ホイットニー(ロバート・A)|GHQ民政局長。
ケーディス(ジェフリー・ロウ)|GHQ民政局次長
ウィロビー(マーク・チネリー)|GHQ情報部(通称G2)の参謀第二部長。
バターワース(ドン・ジョンソン)|アメリカ国務省の次官補。
ドッジ(アナトリ・クラスノフ)|ドッジラインで知られるデトロイト銀行頭取。 GHQ経済顧問として池田勇人大蔵大臣を理不尽なまでにダメ出しする。
ダレス(ブレイク・クロフォード)|アメリカ国務省顧問。講和条約に向けて動いていた茂に再軍備を要請する。
大塚(渋谷謙人)|サンフランシスコ講和条約の演説の際に次郎と話していた人物。
ネタバレ・あらすじ
「占領された日本製」の茶器・ティーカップ
1936年夏。駐英大使としてロンドンにいた吉田茂。共産主義を封じ込めるための三国同盟を目指し茂に協力を求めて大使館にやってきていた、ドイツの陸軍武官を追い返す。茂はドイツ、イタリアと協定を結ぶことで、日本が戦争に巻き込まれることを懸念していた。この頃貿易の仕事で世界を飛び回っていた白洲次郎は、茂のもとを訪れ、麻生太賀吉と和子を引き合わせる。白洲次郎は和子の母親に頼まれて二人を引き合わせ、その後二人は結婚することになる。結局日本はドイツと協定を結び、三国軍事同盟へ発展し、1941年に太平洋戦争が始まり、茂は駐英大使を退任する。
戦況が悪化していた1945年2月。神奈川県大磯の浜辺で思いにふける茂の姿があった。茂は、戦争終結へ向けての上奏文を準備し、近衛秀麿元首相を通じて秘密裏に終戦へ向けて動いていた。そのことが原因で東部憲兵隊に捕らえられ、終戦工作に関わった罪として40日間の拘留されることになる。1945年8月、ポツダム宣言が受諾され、事実上の無条件降伏となり、9月にはアメリカ占領軍が乗り込んでくる。GHQ本部は皇居の向かい側のお堀端の日比谷のビルで、これは、マッカーサーが選んだビルだった。マッカーサーは早速日本の外務大臣を更迭し、急遽日本政府が立てた外務大臣が吉田茂だった。鈴木貫太郎から「負けっぷりよく頼む」と言われた当時67歳の茂は「負けて勝つ」ため、白洲次郎を側近にする。茂は、日本を解放するために来たと言うマッカーサーを「檻の中のライオン」と例える。
日本政府とGHQの間で調整をする終戦連絡中央事務局(Central Liaison Office)に就いた次郎だったが、西洋人相手だとまともに話せない役人たちに怒る。GHQの中で、行政、立法全般を担当している部署「GS(Government Section・民政局)」に赴き、「ニューディール政策は日本でやらせない!植民地支配と保護貿易が世界大戦を生み出した!」と啖呵を切る次郎。後日、昭和天皇とマッカーサーが並んで写っている写真が日本政府に無許可で新聞に掲載される。次郎が持参した”天皇の贈り物”を床に置けと言うマッカーサーに、日本は戦争に負けたが奴隷になったわけではない(マッカーサーに贈られたクリスマスのプレゼントは”友人”として対等な関係として贈られたものだ)、と、はっきりと意見する。次郎は、”従順ならざる唯一の日本人”と言われるようになり、メトロのライオンとアメリカのライオンが一線交えたと話題になっていた。和子アメリカにも屈しない姿勢を貫く無鉄砲な茂と次郎の二人に愛想を尽かし、「東京には戻らない」と言い、夫のいる飯塚に帰郷する。政治家でも軍人でもない「外交官」と言う立場にあった茂たちは、平和的に日本を独立させるのが仕事だと自覚していた。食糧支援を要求する茂に自業自得だと反対するGHQのケーディス次長。上等なハバナ産の葉巻しか吸わないと、マッカーサーの勧めるマニラ産の葉巻を拒否する茂。450万トンの緊急支援を要請するもマッカーサーの答えは「ノー」だった。意地を張っていた和子の元に、八方塞がりになっている状況を知らせる手紙が来る。戻って父・茂の手伝いをしてはどうかと太賀吉の勧めもあり東京に戻る和子。
この頃、茂のもとにはバッシングの手紙が連日送られて来ていた。良いことをしても褒められず、少しのことで批判されることは不公平だと憤る和子。その最中、茂たちが極秘に進めていた憲法改正がスクープされてしまう。国務相、憲法改正担当の松本烝治とともにGHQに向かった茂は「天皇は国の象徴」と書かれた憲法改正をホイットニーとケーディスから見せられる。ソ連を警戒していたGHQに対する茂たち。目の前には「占領された日本製」とプリントされたカップ。茂は次郎に「平和とはなんだ?」と言う気概で臨んで欲しいと伝える。このGHQの草案を元に日本は「憲法改正要項」を発表する。
いち外交官から「総理大臣」へ
1946年4月10日、戦後初の総選挙が行われ、鳩山一郎の日本自由党が第一党となるが、GHQの民主化政策とは逆行することから20万人以上されたとも言われる「公職追放」が行われ、新たに日本自由党総裁を吉田茂にと言う話が持ち上がる。事実上の総理大臣になることに「総理大臣は馬鹿がなるものだ」と反対する次郎だったが、茂はすでに心を決めていた。1、金はつくらない。2、人事には一切口出しさせない。3、嫌になったらいつでもやめる。こうして総裁の席についた茂。マッカーサーは公職追放の口実を持たない茂を右腕として欲しいくらいだと言う。1946年5月22日、総理大臣に就任した茂。和子は秘書職に専念するため、麻生一家も東京へやってくる。この頃日本では食糧問題が深刻で、あちこちに闇市が立つようになっていた。公職追放で大臣の人材が不足する中、GHQから組閣を進めるよう指示された茂たち。運輸省鉄道総局長として頻発するストライキを見事に抑えていた佐藤栄作と共に、和子の夫・麻生太賀吉も吉田内閣のメンバーとなる。政治基盤もなくいきなり総理大臣になった茂だったが、労働運動に油を注ぐ結果になった「不定の輩」発言があり、茂はGHQからゼネストの中止命令を出すよう要請する。これがきっかけでGHQからは二度と後ろ盾にはならないと言われる茂だったが、新憲法後の初めての国会解散となり、「衆議院議員でなければ総理大臣になれない」ため、茂は68歳にして初めて立候補し、選挙活動を行うことに。演説を和子に任せることもあり、結果、野党だった社会党が第一党になり、茂は総理大臣を辞職する。こうして茂は政治には力が必要だとして「吉田学校」のメンバーを集めて、再び政権を取り戻すために動き出す。民主党代議士の田中角栄、大蔵事務次官の池田勇人などを集めていたが、次郎は「アホを増やすだけだ」を愛想を尽かす。そんな次郎に、茂の世話をするこりんは「一番大事なのはブレない羅針盤。そして、粗雑でも向こうっ気の強い若い船乗り」と話す。「Go Home Quickly(さっさと家に帰れ)」こそがGHQの略だと、吉田学校の面々は士気を高めていた。
1948年、補正予算の紛糾で社会党片山内閣があっけなく退陣し、第二党だった茂たちの自由党が政権を握ることになる。「いち日も早く独立。そのための道筋をつける」と息巻く茂たちだったが、茂たちに政権を握らせまいとするGHQのケーディスは、第三党だった民主党の芦田均を擁立する。多数派工作は既に済ませているケーディスの目論見通り、首班指名の投票で勝った芦田内閣が誕生する。しかし昭電疑獄事件がきっかけとなりあっけなく総辞職に追い込まれ、ケーディスが次に擁立したのが、民事党幹事長だった山崎猛だった。マッカーサーは内政干渉を喜んでいないなずと気づいた茂たちは、G2(GHQ情報部)を利用して揺さぶる。参謀第2部長のウィロビーに掛け合った次郎は、料亭「杉田屋」で元子爵夫人・鳥尾鶴代(橋本マナミ)とケーディスの密会をスクープ。情報を渡したはウィロビーは、「ワシントンには日本の民主化を懸念する勢力もいた」と言う言葉に揺さぶられた。民主自由党の緊急役員会で茂は「マッカーサーの願いなら応援、そうでないなら、内政干渉を訴える」と宣言。こうしてケーディスのスキャンダルがGHQにもリークされケーディスは解任、帰国命令となる。少数与党のため国会を解散して総選挙に打って出た茂たちは、過半数獲得して茂は首相に返り咲くことになる。この時、田中角栄は獄中から立候補となり、シャバに戻って10日で選挙活動を開始していた。田中角栄は衆議院の建設委員会に所属、議員立法をバンバン出せと命を受け、佐藤栄作は政調会長(党の三役)、池田勇人は大蔵大臣となり経済の健全化を期待される。
表向きは大蔵大臣の経済視察
1949年4月4日、施政方針演説をした吉田内閣。こうして、池田勇人の秘書官だった宮澤喜一も同席する中ジョセフ・ドッジ GHQ経済顧問との攻防が始まった。当時は、アメリカ国民の税金と国内補助金で成り立っていたのが日本経済で、いわば「竹馬に乗っている状態」だったため、ドッジから再三ダメ出しをされる池田勇人。財政緊縮を迫るドッジは、「公共事業費を党が公約していた半分の500億円にしろ!」や、所得税減税を実現したい池田勇人に、「税金の納め方がデタラメだから税を下げることはできない。だから、徴税機構を改めろ!」と言う。占領下の大蔵大臣ほど惨めなものはないと、辞任を申し出る池田勇人だったが、宮澤喜一に連れられ海岸へ向かい、二人は海に向かってドッジの悪態をつくのだった。1949年、中華人民共和国の成立し、共産党圏がアジアを席巻する勢いはますばかりだった。講和条約は交戦の終了を宣言、賠償金、領土の確定、捕虜の解放、外交・交通の回復を規定すること。主権が回復できない日本は、極東の島に過ぎないと言われる中、茂たちは日本は民主化の優等生だから、アメリカ、イギリスと講和条約を結べばいいと結論する。問題は、単独講和か全面講和かと言うところだった。GHQの反発が予想されていたので、アメリカも占領派と講和派で世論がわれていたと言う事実を利用し、表向きは大蔵大臣の経済視察として、講和の親書を極秘に渡す計画を実行に移す。「吉田茂の秘策・妙案」があった。それは アメリカ国内での駐留軍の”位置付け”が論点になっていることで、日本をソ連の共産勢力の防波堤にしたいアメリカに、独立後にアメリカに駐留を依頼すると言うものだった。占領派も講和反対理由を失うことから、受け入れられる可能性は十分。命がけの日本独立のためにワシントンへ向かったのは次郎、池田勇人、宮澤喜一の三人。輸出入銀行設立の認可は確実となる中、ドッジラインの緩和も概ね受け入れられる。ドッジはGHQの顔を立て、親書の受け取りには慎重だったが、次郎がバターワース国務省の次官補とランチをした後、ドッジは親書受け取り、「吉田茂の秘策・妙案」は成功。全てを知ったマッカーサーは激怒していた。
1950年。朝鮮半島の東西陣営が戦闘状態に突入し、マッカーサーは西側の司令官に任命される。在日米軍と共に戦地へ赴く中、アメリカは日本に再軍備を要求する。これはそれまでのGHQの政策を180度転換する出来事だった。国務省顧問のダレスに「財政緊縮はまだ可能だ!再軍備が講和を結ぶ条件だ!」とまくし立てられる茂たちだったが、今軍隊を持てば戦争に巻き込まれると慎重になっていた。戦争は絶対にさせない!と言う茂は、「日本には番犬がいる」として、再軍備を棚上げさせ、代わりに創設させた保安隊も、アメリカに要求されたものより小さい規模にさせると言う結果を導く。その後、マッカーサーが司令官を解任され帰国するが、これは朝鮮戦争で劣勢になりトルーマン大統領の信任を失ったことが原因だった。お茶を飲む茂とマッカーサー。「あなたの涙を私の涙とし、あなたの満足を私の満足としたい。」「あなたの思いはそのまま私の思いです。Your Exellency」と二人は言葉を交わし、その交際は後年まで続き、茂はマッカーサーの葬儀に参列するほどだった。
1951年夏、茂はサンフランシスコで行われる受諾演説の練習に取り組んでいた。孫にあたる麻生太郎から「ママをいつ返してくれるの?」と言われる茂は、サンフランシスコの後に総理大臣やめる腹づもりで、焼き討ちを覚悟するほど。1951年9月、マスコミを避けるためにサンフランシスコの友人宅に宿泊していた茂だったが受諾演説の二日前に事件が起こる。演説文が英語だったことが判明し、さらにその内容も占領軍への感謝ばかりだった。次郎は日本語訳の作成にすぐさま取りかかり、演説は無事終了。茂には受諾演説の数時間後、もう一つの条約への調印があった。これは、茂の一存で決めたことにしたかったもので、それが「日米安全保障条約」だった。その夜、一人涙していた次郎を池田勇人と宮澤喜一は「唄」で励ます。
こうして「国を救った英雄」とまで言われるようになった茂もこの時73歳。「晩節を汚すな」と言う次郎に「やり残したことがある」と言う茂は首相を続ける。このころ、次郎との関係に亀裂が入り始め二人の蜜月は終わりを迎える。「いつお母さんを返してくれるの?」と言う太郎の問いに「あと3年、いや50年」と答える茂。その後、茂は第五次吉田内閣、76歳まで総理大臣を務め、”バカヤロー解散で知られるワンマン宰相吉田茂”は、1963年10月、85歳で政界を引退する。後年、茂の住んでいた土地は二万坪だと言われるが、茂はこの土地は遠くサンフランシスコまで続いていると話す。
1967年10月20日、享年89歳で”沖縄返還に想いをはせ”ながら世を去った茂。「あと三千年、四千年生きたい。しかし、人は死ぬ、しかし、国は生き続ける」と言葉を残す。